大判例

20世紀の現憲法下の裁判例を掲載しています。

最高裁判所大法廷 昭和36年(ヤ)35号 判決

大阪市住吉区田辺東之町四丁目二六番地

再審原告

高野宇三郎

同市東区大手前之町一番地

再審被告

大阪国税局長

金子一平

右当事者間の所得税審査決定取消事件について、当裁判所が昭和三六年九月六日言い渡した判決に対し、再審原告から再審の申立があつた。よつて当裁判所は次のとおり判決する。

主文

本件再審の訴を却下する。

訴訟費用は再審原告の負担とする。

理由

再審原告は、別紙のとおり再審訴状を提出し、当裁判所が昭和三四年(オ)第一一九三号所得税審査決定取消事件について、同三六年九月六日言い渡した判決に対し再審を求めるというのであるが、右訴状の記載によれば原判決の法令解釈の違法を主張するに止まり、民訴四二〇条一項所定の再審事由を主張するものでないことが明白であるから、本件再審の訴は不適法である。

よつて、本件再審の訴を却下することとし、訴訟費用の負担について民訴八九条を適用し、裁判官全員一致の意見で主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 横田喜三郎 裁判官 斎藤悠輔 裁判官 藤田八郎 裁判官 河村又介 裁判官 入江俊郎 裁判官 池田克 裁判官 垂水克巳 裁判官 河村大助 裁判官 下飯坂潤夫 裁判官 奥野健一 裁判官 高木常七 裁判官 石坂修一 裁判官 山田作之助 裁判官 五鬼上堅磐)

○昭和三六年(ヤ)第三五号

再審原告 高野宇三郎

再審被告 大阪国税局長

再審原告の再審申立事由

一、本件の主流

専門家のことはわからぬ。われわれ素人として憲法を見るに、上告理由書(二頁の表)にみるように、来る年も送る年も五年十年二十年妻は終生一円も所得は認められぬ。民法七六二条第一項が憲法の法意に添うということは一向に見当らぬ。憲法は最高常識の、及び、道徳人倫の最高水準を示すもので、法律の最高条規であつても法律専属の準繩とは考えぬ上告人は、上告人なりに本件判決には不服である。

判決書理由によると「民法七六二条第一項の規定をみると、夫婦の一方が婚姻中自己の名で得た財産は、その特有財産とすると、定められている」「民法には別に財産分与請求権、相続権ないし扶養請求権等の権利が規定されており、右夫婦相互の協力寄与に対しては、これらの権利を行使することにより、結局において夫婦間に実質上の不平等が生じないよう立法上の配慮がなされているということができる。しからば民法七六二条第一項の規定は、前記のような憲法二四条の法意に照らし、憲法の右条項に違反するものということができない」とて、妻は十年でも二十年でも終生ただ働いて死んでいけということである。というと民法に別に規定されている三権等あるからとのことだが、実際にはそれは全民衆が法律家であつてのことである。弁護士とのこともあろうが、金と時間のかかること、問題の起る場合は金持だけとは限らぬ。むしろ貧乏人の方が多いのである。のみならず、このように民法に立法上の諸配慮があることそのことが民法七六二条一項が既に憲法第二四条の法意にそむくからだと思う。そればかりではない。此の諸配慮は家族全般だれにも適用できることで、ここにいう配偶者相互間に限られた規定でないところに紛争の萠芽が潜む。堤防をいうのでなく、水流を正しくし堤防の効果をより高め、災禍を軽く、少くしようとするのが人間当然の道であり常識であるごとく、憲法二四条に反する民法七六二条第一項の反憲の根本の幣を取除き、民法の前記諸配慮を、より具体的にし、夫婦間の不幸紛争を軽減排除しようとするのが本件の主流であり、問題は民法七六二条第一項だけである。

二、再審の問題点二つ

「結局継続的な夫婦関係を全体として観察した上で、婚姻関係における夫と妻とが事実上同等の権利を享有することを期待した趣旨の規定(憲法第二四条)と解すべく、個々の具体の法律関係において常に必らず同一の権利を有すべきものであるというまでの要請を包含するものでないと解するを相当とする」と理由に示されているが、此点上告理由書二頁の表は、全体として最も具体的に観察したもので、且個々の具体の法律関係を云々したものでないこと明らかだと思う。

イ、本件問題の主流は先づ夫婦は一心同体ということと、夫と妻各自の所得の点にある。依て昭和三四年五月二〇日大阪高等裁判所に提出した控訴人第一回準備書面乙控訴人の所信を重ねて摘記すれば、

男一女一を含めて夫婦は二でなく、単位一という。どうしてか。

憲法第二十四条にいう相互の協力ということは、男だけがまことを尽すということではない、同時に女も男に対して真事を致すということである。このまことを尽しあう相互の協力とは男女を含む全体それ自身が自分を決定する全体の自己限定ということである。その全体の自己限定一こそが、ここにいう真の夫婦一で、それが社会や国を建立し構築する絶対的基本単位一である。古来「夫婦は一心同体」というのはこのことである。

この夫婦において、男を夫と云い、女を妻と呼ぶ。夫婦を離れれば夫なく妻もない。ただの男女である。ゆえに又、夫あれば妻あり夫婦厳存する。これと同じことが妻についてもいえる固よりである。

夫婦・夫・妻とはこのような現実である。

人間の絶対的基本単位夫婦一は、それ自らの生命と幸福とのために働く。此働く力は一心同体夫婦一の一つの力である。従つて其成果所得は夫婦一に帰属する全体の一なるこというまでもない。夫婦は此成果によつて精神的に又物質的に充足され、夫婦生活が豊かに、そして純化され維持される。憲法第二十四条にいう「夫婦は相互の協力により維持されなければならない」とはこのことである。

このような夫婦の所得の処置処分及び利用等は、ただ夫・妻相互の了解と信頼でのみ行われること当然で、他の容喙を許さぬ。憲法にいう「夫婦が同等の権利を有することを基本として」のことである。此同等の基礎に立つてこそ健康にして均衡のとれた人間の絶対的基本単位夫婦一確立し、人間の世界が建立されていく。

ここに夫の所得と妻の所得とをいう。其何れも夫婦の所得全体の一に由来するものであるが、此所得は「成程妻は自分の所得については何にも云わぬ。ただ成果所得の大を祈念するのみ」。(第一審訴状第一号証別紙三頁九行)によるものであつて、それは「我」を忘れた絶対の協力によるものである。と同時に、妻も夫に対して、真に夫婦である限り此感銘をもつ。このような夫婦の所得を或る事情の下に、本件の場合は夫と妻とが社会人として又国民として社会又は国への必須の供出としての税の必要から、それぞれの所得を定めるとなれば、互に了解の上で等分する当然である。等分と均分とは意味のちがうことは上告理由書に注記した。

ロ、判決理由によると、憲法第二四条の法意を民主主義個人主義の原理に、重点がおかれているようにみえる。その点上告人も至極同感であるが、しかしただそれだけの理由で一カ条設けて夫婦を規定する要はないように思われる。憲法第三章の大方の他の条項で用は足りる筈だからである。では第二四条設定の特異はといえば、夫婦は人類生命の根元であつて、ただ男とか女とかという一般の人間関係だけの民主主義個人主義の原理だけででは包みきれない点あるからだと思う。即ち憲法にいう相互の協力による夫婦の維持或は夫婦は一心同体ということは、民主主義や個人主義の原理だけでではつかまえきれないところあるからだと思われる。つまり夫婦と、夫や妻とは、全と個との関係にあつて、全に重点を置きすぎると個はなくなり全も又なくなる。個に執しすぎると全はなくなり続いて個もなくなる。このことは古今国の興亡に、小さくは亭主関白に瞭然としていることであり、又わが憲法にも第十一条に民主主義を高らかに高揚しながら、第十二条に国民はこれを濫用してはれらないのであつて常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負うと、十一条に個を、十二条にその個と全との関係を示されているごとく全と個との関係、夫婦対夫や妻との相関関係を忘れたのでは、人類生命の根元、現実の夫婦も、夫も妻も捉えられないと今も(イ)でいうたことだが、この点が憲法第二四条の特色で且設定の理由だと思う。(この相関関係については上告理由書四頁(1)~(6)にものべた)

三、結論

ところが判決書理由に「民法七六二条第一項をみると夫婦の一方が婚姻中自己の名で得た財産はその特有財産とすると定められ、この規定は夫と妻の双方に平等に適用されるものである」と、これでは夫と妻とを、それぞれ孤立的に捉え、夫婦を忘れている。憲法第二四条にいう相互の協力による夫婦の維持を破壊するものと思う。どのような言葉や表現であろうとも、上告理由書二頁の表の示す現実を見れば、全と個との相関関係を無視してること議論の余地なかろうと思う。

夫婦の一方が婚姻中得た財産は、夫又は妻、何れの名で得ようとも、すべて夫婦の財産である。この夫婦の取得を或る事情の下に、それぞれの所得を定めるとなれば、互に了解の上で等分する当然のことである。夫の所得、妻の所得、何れも夫婦の所得以前のものではないと上告人は主張する。

このように最高裁判所大法廷判決理由と、上告人主張とはたしかに相対峙し反対である。上告人はその判決に不服である理由を以上述べた。

これが再審を訴える理由である。

自由と民主主義を守るため、ウクライナ軍に支援を!
©大判例